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言の葉(社家こよみ)

10月16日は当家のお日待ち行事です。P1020056P1020336P1020335

庚申信仰、庚申待ちともいい、陰陽道や仏教的な要素も盛り込まれた民間的な信仰です。

「前夜から潔斎して寝ずに日の出を待って拝む。」というのが古くからの習わしになっています。

精進潔斎のいみごもりの行事だったようですが、現在当家では、「猿田彦神」の掛け軸を床の間に掲げ、お供えをし拝する行事になっています。

これは庚申の申に因んだものです。また、かつては当番の家で饗応し夜明けを待つ氏子の行事でもありました。

いずれにいたしましても、日をお迎えし、冬に向かい衰えゆく太陽の光の恵みに対する信仰的要素が強い行事です。

<宮司家の水無月の祓い>

水無月晦日の夕刻に行う社家行事です。

天草とひとがたで身体を撫で罪穢れを移し祓いをします。

また寒天を食し体調を整え夏を乗り切る体づくりをします。

寒天は当日神社においても頒布いたします。是非この機会にご試食ください。

尚、当日30日午後5時から神社境内において茅の輪くぐりの夏越し大祓の行事がおこなわれます。参加は自由にどなたでも行うことができます。

天草とひとがた(人形)

寒天

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当家では紙の人形(ひとがた)を吊します。

雛祭り

一般的には桃の節句といいます。旧暦の三月三日は桃の花が咲く頃でもありそのようにいわれます。

また三月の最初の巳の日という意味で上巳(じょうし)の節句ともいいます。平安時代には上巳の祓いといって、人形で身体を撫でて川に流す行事が貴族の間で行われました。流し雛行事もまた同じで今でも各地で行われています。

人形は人の身代わりになるものですから、古くは“ひとがた”といって穢れなどを負託してもらっていました。

江戸時代になってからは雛を川に流さず飾るようになり、人形の数も増え美しく華やかになっていきます。今日では雛祭りは女児の祭りとなり、遊び祝う行事として定着し広く親しまれています。

いずれにしても春の季節にふさわしい華やかな行事であり、心の和みが広がっていくこのような伝統的な遊びの風習が末永く続いてほしいものです。

 

 

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柊鰯に大豆の殻

鬼やらいと鬼むかえ

 

今日は節分です。全国各地で鬼やらいの行事が行われます。

炒った大豆を撒いて鬼(邪気)を祓い、歳の数だけの豆を食べ一年の無病息災を祈願します。「穀物には生命力と魔除けの呪力が備わっている」との謂われによって、鬼に豆をぶつけて追い払うという意味の節目の行事です。

当家では門口に柊鰯(ヒイラギイワシ)に大豆の殻をつけた鬼除け(邪気を祓う)を取付けます。また床の間には鬼と見立てた掛け軸を掲げお供えをして迎えます。

鬼を追いはらいながら鬼を迎えるという一見矛盾するようなことも社家の風習の一つになっています。異界からの訪問者に此界の習わしを受けてもらう、その後饗応し、再び異界に無事戻ってもらう、鬼もまた福をもたらす異界からの“まれびと”(訪問者)として歓待されています。

さて、当家の掛け軸の「鬼」と見立ている図は「神農図」のようです。当家ではいつの頃かは不明ですが、鬼も神農もこの時期同一視しています。これは想像するに、鬼が邪気を持って節分の節目に現れる、それを迎へ、邪気の部分を祓い鬼は歓待する形を取っています。また一方、春の節目に農耕神が恵みを携えやってくる。それが良きまれびととなり豊饒や福をもたらす。・・というように混用的に捉えた予祝儀礼としての要素の考え方もあったのではないかと推察されますが・・詳しくはよく分かっていません。もしかしたら単純に鬼と神農とを取り間違えたものなのかも知れません。・・しかしこういった類の民間信仰は実に寛容的な部分があり信仰の大らかさを感じます。

平成26年2月3日 宮司 高梨富弥

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神農と鬼?

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自生の藪椿が境内のあちらこちらで花を咲かせています。

今日からは伊豆大島では椿まつりが開催されます。300万本の椿はさぞ見事な景観を見せてくれているでしょう。土砂災害の復興のシンボルとしてもまつりが盛況であることを願わずにはいられません。

ところで椿は花だけではなく葉も鑑賞の対象になっているのをご存じでしょうか。 「金魚葉」「杯葉」「百合葉」「梵天葉」「桜葉」「弁天葉」などなど多くの葉名がついています。茶人や武将の趣向の一つとしても珍重されていたようです。

それにしても、椿の花の散り方はなんと潔いことか、花そのものがすっぽりと地面に落ちていく姿はドキッとさえします。自然の中のできごとは面白く、時に怪しくも思えてならないのです・・

 

今春は椿の葉に心を傾けてみたいと思っています・・・

平成26年1月15日  宮司 高梨富弥

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「金魚椿」葉の端が金魚のしっぽのような形になっています(境内某所)

 

 

 

あけましておめでとうございます。

輝かしい平成26年甲午歳が皆様にとりまして良き年でありますよう心よりご祈念申し上げます。

 

さて、最近ちょっと気になっていることが・・・

それは、年代表記において西暦を多用する機会が増えたことです。

確かにグローバル化の今の時代においては便宜上そうせざるをえないことも理解できます。しかし我が国においては、せめてお正月を迎えるこの時期くらいは伝統的な年号を使ってほしいものです。

それは日本の正月(年越し)には特別の意味があるからです。つまり日本の精神性が更新される瞬間が正月そのものの中にあるからです。

神道に豊栄(とよさか)ということばがあります。豊かに栄えようと神も仏も人もいっしょになって努力しようと誓いをたてる年の始めの日本的美風は、我が国のスメラミコトの御代が豊栄に続く年号にその真理が顕れているといっても過言ではないでしょう。

 

そのようなことで・・

“2014年、明けましておめでとう”・・とは、

何とも無味に感じてしまうのですが・・

もっと年号を大切にしていきたいと思います。

             平成26年1月2日 宮司

 

「神道から・・」 ピーター・グリーリ氏

 建築家の瀧下嘉弘氏よりお誘いを受けて久しぶりに鎌倉のギャラリーを尋ねた。

源氏山のギャラリーに着くと、由比ヶ浜からのさわやかな風が迎えてくれてなんとも心地よく心が洗われる思いがしたのである。古民家を再生した氏のギャラリーを訪れるたびに私は心が豊かになり癒されるのである。

 そんな中、この日はボストン日本協会会長。ジャパンソサエティ ディレクター、 コロンビア大学ドナルドキーン日本文化センター所長などを歴任され、現在日本協会顧問、同グローバルカルチャーセンター会長を務められているピーターグリーリ氏がいらっしゃるとのこと。そして氏が1978年に製作したドキュメンタリー映画「SHINTO」の上映会とあって、居ても立ってもいられずお邪魔したのである。

 グリーリ氏は日本文化に造詣が深く、むろん日本語も堪能である。

なんとも心地よい日本語を話されるのである。

私は引き込まれながら神道についての話しをうかがった。

映画は正に「目には見えないものに目を見はる」という神道の本質ともいえる感性に触れた表現が随所に織り込まれていて深く感銘を受けたのである。それはもしかしたらレイチェルカーソンのセンスオブワンダーの世界観にも通じるものなのかも知れないと・・ふとそうも思ったりしたのである。

グリーリ氏は日本を理解するためには「神道から入らないと理解できない・・・」とおっしゃられていました。その心眼には背筋が伸びる思いがしたのである。

 上映後は、瀧下邸の古民家のすばらしい空間で奥様がご用意して下さった美味しいワインを飲み交わしながらグリーリ氏を始め、日本文化や神道に造詣の深い米国大使館公使のディビッドソン氏や多くの外国の方々と神道談義での交流があり、改めて日本文化の奥深さを外側から知らされた思いを味わったのである。

とても有意義なすばらしい一時を提供して下さった瀧下氏に感謝を申し上げたい気持ちである。

 

          平成25年10月13日  宮司 高梨富弥

富士山が世界文化遺産に、思うこと・・・

 この度、三保松原を含め、富士山が登録名「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」として、世界文化遺産に登録されたことは大変喜ばしいことと思います。

ただ、これから、これらの貴重な資産をどのようなシステムで管理(保全)していくかが問われているので課題も多く少し心配になりますが・・・

それにしても、自然遺産ではなく、文化遺産としての、信仰の対象として富士山が世界に認められたことは大いに評価すべきものだと思います。

私は、特に神職になってから、富士山は信仰の対象であり、遙拝する事に意味があると自身にそう言い聞かせてきました。かつて、何度となく富士登拝(登山ではなく)の機会を得ましたが、全て断念しました。

登拝と言っても、信仰の対象の山に登るのは・・・という何か畏怖的な思いもあって・・

まあ、変わり者が一人くらいいてもいいのかな、と思っていますが・・

ちょっと、考えてみてはいかがでしょうか・・・

これを機に、安易な富士登拝、富士登山を遠慮し、

富士遙拝に心を傾けてはと・・

登りたい、感情を・・

静かに自身の内に留めていただきたい・・

その思いは、必ずや霊峰に届くことと思います。

そう、思ってみてはいかがでしょう・・

禁足地としての観点で・・

更に富士山が尊く、

気高く感じられることでしょう。

 

山梨側、静岡側の絶景ポイントは数多くあります。

それに、浮世絵にも画かれた富士は、眺望が美しい、

荘厳で、正に信仰の山に相応しい山といえるのではないでしょうか。

今や、白川郷は交通大渋滞、小笠原は絶滅危惧種の樹木荒らし、屋久島は植生の踏み荒らし、などなど・・世界遺産となったところは多くの問題を抱え疲弊しています。

イコモスの勧告書には神聖さが要求されています。山中湖のレジャーボートなどが神聖さを阻害しているとの指摘があります。如何に信仰が重要視されているかがわかります。

富士は信仰の対象なのです。だからこそ世界が認めたのです。

願わくば、文化遺産が取り消されることのないよう祈るばかりです。

私は、生涯、富士山には登ることはないかも知れません・・

あの、気品に満ちた感動的な山を、

いつまでも遠くから安らかに心に留め拝み続けたいと・・・

そう、願っているからです・・・

宮司

精神文化の再生から・・・     宮司のたわごと 13

 

平成25年の輝かしい年を迎へ、新政権の最重要課題でもある経済再生が具体的にどのように展開されていくのだろうか・・

期待もあり不安もあるというところなのでしょうか・・

 

前記でも述べましたが、再生について鍵を握る問題は・・

私たちの命が何を以て支えられ、何を以て養われているのだろうか・・ということだと思います。

つまり私たち日本人の根底にある精神文化、その再生・・

実は経済の再生ともリンクしてくるのですが・・

 

精神文化の重要な部分は・・

神仏を大切にする心が私たちの命を支え、勤勉さや誠実さや正直の心が日本人を養っているのだということです。このような精神文化を再生させ、政治を始め、ビジネスやものづくりに結びつけていくことが賢明なはずなのですが・・

 

“凡そ神は正直をもって先とし、正直は清浄をもって本となす”

(度会家行)

暫く日本人が忘れ、捨て去ってしまった価値意識の再生こそが、

この国の再興への道なのではないでしょうか。

 

そのようなわけで、今年は精神文化の再生から・・

一年を振り返って・・・  宮司のたわごと その12

 

この時期になると・・・

参拝者をお迎えする正月の準備に追われ、ゆっくりと一年を振り返る精神的作業などなかなかできていないことが大変残念に思います。

しかし5分でもいいから振り返る努力をするのですが・・・

 

この一年を・・・

何をもって自分の命が支えられ、何をもって養われているのか・・・

 

それは我が国の精神文化のコアの部分であるような気がしています。

違った言い方をすれば日本人としてのアイデンティティーなのかも知れません。

戦争もなく平和な国に暮らし、近代的な生活を享受しながらも身勝手を慎み、神や仏に対する畏怖の念や先人の智恵に学ぶ謙虚さや尊敬の念、それらによって私自身が支えられているのだとつくづく感じるのです。

 

迎える年が良い年になりますように・・・

・・・そう願わずにはいられません。