この国の品格が崩れていくような気がした・・
国賓として来日しているブータン国王の宮中晩餐会に
4人もの閣僚が欠席しました。
ある1人の閣僚はその日同僚の政治パーティーに出席し、
晩餐会より政治パーティーの方が大事であると挨拶したそうです。
またある閣僚は晩餐会前のカクテルパーティーで携帯電話を使用していたようです。
なんとも非常識な・・・
この国の国民が長い歴史を通して築き培ってきた品格が・・
一瞬にして崩れていく思いがしました・・・
さみしいかぎりです・・・
この国の品格が崩れていくような気がした・・
国賓として来日しているブータン国王の宮中晩餐会に
4人もの閣僚が欠席しました。
ある1人の閣僚はその日同僚の政治パーティーに出席し、
晩餐会より政治パーティーの方が大事であると挨拶したそうです。
またある閣僚は晩餐会前のカクテルパーティーで携帯電話を使用していたようです。
なんとも非常識な・・・
この国の国民が長い歴史を通して築き培ってきた品格が・・
一瞬にして崩れていく思いがしました・・・
さみしいかぎりです・・・
かつては日本各地の海岸線の村々には「命山」と呼ばれる津波避難所が存在しました。
明治以降、急激な国土の開発が進み、それらは姿を消していくことになります。
正に持続可能な開発が踏みにじられていくことになりました。
「命山」とは人工的に築いた築山で、人々にとっての「命の山」です。
先人たちは常に自然の猛威に対しては危機意識をもち続け、このような避難場所を築いていたのです。その智恵には驚かせられます。
今回の大震災を契機に、海辺の市町村では津波避難タワーの建設が計画されていると聞きます。試算によれば一棟あたり少なくても3000万円~4000万円かかるそうです。
しかし、このような避難タワーがどの程度の強度を持ち、どの程度耐えられ、どの程度の人々を受け入れられるのかがあまり明確にされていません。ただ建てればそれで行政の責任を果たしたかのような結果になってほしくはないと思います。
長期的に、そして維持管理や街の景観なども考慮し、また費用対効果などを考えれば21世紀の「命山」の復活が今後の防災・減災対策の一つとして大きな役割を果たすものになっていくような気がするのですが・・・
無駄な費用を費やすことなく・・・
先人の知恵に学ぶことを忘れないでほしい・・・
恐(かしこ)み恐(かしこ)みも申す・・・ または畏み畏みも申す・・・
神職が奏上する祝詞(のりと)の結尾はかならずといっていいほどこの言葉で終わります。
これはもちろん神さまに対してそう申し上げますが、広い意味では、自然に対してもそう申し上げます。
自然については、日々の生活の中で普段あまり意識することなく暮らしています。とくに改めて感謝を表すなどということはめったにありません。しかし、一旦その脅威に遭遇したとき、人は屈服し、恐れを覚え、無力になり、絶望と悲しみを味わうことになります。そんな時、人は自然に対して畏怖の念を抱かずにはいられません。
哲学者カントはこう述べています。(サンケイ4.18朝刊)
「巨大な自然現象は人間に恐怖心をおこさせる。(中略)しかし、理性と想像力をもって人は自然現象を解明し、恐怖を乗り越えることができる。その時、人は自然に対して崇高な気持ちをもち、その崇高さによって、人格性を高め、自然を支配することができる」と・・・
このようなことばに触れる時に思うのですが・・・
つまり常に人間側から自然に対しての支配を前提にしているような論理が、西洋社会の基本的な構図になっていることに気付かずにはいられないのです。
なぜ、崇高の対象を支配しようなどと考えるのかが理解できません。
支配と被支配の二分論でくくるような思想領域に陥ってしまっているように思えるのですが・・・
このような捉え方には間違いがあると思っています。
なぜなら、ものごとをさまざまな原理や要素の中で捉えるとき、相対する発想では捉えきれない多元的なものがあると考えるからです。
西洋では山に登れば征服したといいます。日本では山に登れば山の神々と一体になったといいます。自然現象を知り解明することは重要です。だからといって私たちはほんとうに自然を支配し、コントロールすることができるのでしょうか。人格性を高めて自然を支配しようなどと、うがった驕りのようなものの考え方はもはや限界にきているのではないでしょうか。
日本は自然災害が多い国です。自然と共に暮らし、生き抜いてきた先人たちの築いた知恵があります。
そんな日本人の“昔のてぶり”というものを忘れないようにすることが、日本の危機管理の原点なのではないでしょうか。
恐み恐みも申す・・・にはいろいろな意味がふくまれます。
畏怖の念はもちろん、人間の自然に対する本質的な考え方や、あらゆる“モノ”に対する人間の精神的行動をあらわします。それはかしこみ、一歩引いて対処しようとする日本人本来のすぐれた斎(いつ)く心の鳴動だと思います。
自然は私たちに大いなる恵みをもたらしますが、また、時として災禍をももたらします。
だからこそ、恐(畏)み恐(畏)みも申す・・・という実践が必要になってくるのではないでしょうか。
宮司のつぶやき・・・ ですが・・・
つぶやきにしてはちょっと長く、支離滅裂のような文なのでタイトルを変えることにしました。
“宮司のたわごと” とご理解下さい。
ところで、10年程前、妹家族が名取市に引っ越すことになった時、私は海沿いを避け高台に住むようにアドバイスしたことがありました。
幸いその後、高台に居をかまえることができ、このたびの震災では難を逃れて家族全員無事でした。
また16年前の阪神淡路大震災の時のことですが、近所の建築会社からダンプカーを借り、神社で所有するショベルカーを荷台に積んで、神戸市と淡路島へ片道24時間かけ、2週間神職の仲間たちと救援活動にでかけました。
散乱するがれきを撤去するにはショベルカーは大いに役立ち、日頃神社の境内整備等で作業をしていたせいもあり、あまり苦労することなく作業できたことが思い出されます。
がれきをショベルカーでつまんでは、ダンプに載せて、何度も何度も神戸港の集積場へ運んだことを昨日のことのように思い出します。
今回の東日本大震災は、阪神淡路の震災の時とは大きく違い、原発、放射能の問題があってショベルカーのオペレーターたちも二の足を踏んでいると聞きます。
一日も早い復興には、一日も早くがれきを撤去することがなによりもの近道であると感じています。それは阪神淡路の時の被災者のかたがおっしゃっておられたのですが、目の前の悲惨な状況を早く消し去ってほしいと言っておられました。
何とか、何とか、放射能の問題が一日も早く解決して・・・
たくさんの重機が現地に入ることができるようになれば・・・
きっと、復興も早く進むことと思うのですが・・・
大相撲・・・“もののあはれ”
昭和40年代横綱審議委員長を勤め、芥川賞選考委員でもあった小説家の舟橋聖一氏が、新聞コラムに大相撲の八百長についてコメントを寄せた石原慎太郎氏にいったことばがとても印象的です。
「それはもののあはれというものだよ」といったそうです。
“もののあはれ”・・・とは 本居宣長が著書『源氏物語玉の小櫛』などで説明し、日常からかけ離れたものごとにしみじみとした情・趣・哀・愛などを、ああ・・あはれ・・とする文学的、美的感覚についていったものです。
また別ないいかたでは、西行法師が「都にて 月をあはれと おもひしは 数よりほかの すさびなりけり」と歌い、都の人たちが月をみてあはれというのは、自然から縁もない人たちの月を見る感情は、単なる“すさび”で、自己満足の慰めでありひまつぶしであると皮肉っています。
大相撲は江戸時代には興行としてビジネス化されています。
そこにかかわる大勢の人のなりわいが成立しています。そのなりわいを維持していくシステムの暗部が露呈したのが今回の八百長問題ではないでしょうか。
ものごとに触れ、目に見、耳に聞き、感じたこと・・・
舟橋氏がいった“もののあはれ”・・・
なんとも言い得て妙です。
納得してしまいました。
トイレの神様
植村花菜さんという女性シンガーが歌う「トイレの神様」がヒットチャートに上っています。この歌は彼女と彼女のおばあちゃんとの思い出をつづった歌です。
♪♪♪・・・
トイレにはそれはそれはキレイな
女神さまがいるんやで
だから毎日キレイにしたら女神さまみたいに
べっぴんさんになれるんやで
その日から私はトイレを
ピカピカにし始めた
べっぴんさんに絶対なりたくて
毎日磨いた
♪♪♪・・・
彼女の生活はおばあちゃんとの生活でもあり、時にはおばあちゃんとけんかをしたり、時には家族とうまくいかず家にも帰らなかったり、そんなことが繰り返えされて彼女は思春期を迎えます。そしておばあちゃんを残して上京。
2年が過ぎ、おばあちゃんが入院、そしておばあちゃんとの辛い別れ・・・
そんな思い出がつづられた心にしみる歌です。
おばあちゃんが残した彼女へのことば・・・
トイレの神様・・・
おばあちゃんにとってトイレの神様とは何だったのでしょうか。
トイレの神様とは厠(かわや)神のことをいいます。厠(かわや)は「川屋」であり「交屋」という解釈もあります。それはセッチン様、ウスシマさん、オヌシ様、チョズバ様、オシラ様、オタナ様などなど地方によって呼び方もそれぞれ違います。
この神様は男女神だったり、女神だったり、はたまた裸すがたの神、手がない神といった姿で登場してきます。
民俗学的にトイレとはどのような場所であったのだろうか。考えてみるとたいへん興味深いことがわかります。
ある地方では大晦日、トイレの神様にお供えをして共に食をとり年取りを行うそうです。またある村では妊婦がトイレのそうじをするとキレイな赤ちゃんが生まれるといういい伝えがあります。また「雪隠(せっちん)参り」といってお七夜に赤ちゃんの成長を願ってトイレに参る風習があります。
トイレは普通、家の裏側に位置し、暗い場所、汚い所といったネガティブなイメージがあります。しかしはたしてそれだけでしょうか。前述の年取りや雪隠参りなどからすると必ずしもそうとは限らないようです。
一説には、トイレは境界として捉えられています。
それは此岸と彼岸の境界です。そこに座す神様(境界神)がトイレの神様です。
彼岸という異界との交流がうまくいかないと災いが生じます。
「そうじをする」 とは 異界との交流を円滑にするということかも知れません。
そうじをすることで秩序を更新します。
それは精神の活性化であり、事態を転換させることであり、再生させるということです。
つまり時間と次元の転換なのです。否定性を肯定性に転換させる場であり、社会的秩序を実現する場という意味をも持ちます。
おばあちゃんはおそらくそういうことを知っていたのでしょうね・・・
孫にはしあわせになってほしい、今の状態を脱してほしい、転換してほしい、一人の美しい女性になってほしい、社会に役立つ人になってほしい、そんな思いがあったのではないでしょうか・・・
大相撲ファンの一人として・・・
「切り身」の議論だけでは大相撲の改革は期待できない・・・
今回の大相撲の不祥事に関しては、外部の有識者により調査委員会や独立委員会なるものが立ち上げられたといいます。
不祥事が賭博行為という刑事事案でもあり、社会問題として大きく取り上げられ、協会組織の自浄能力が試されています。
調査委員会には、法律学者や弁護士、危機管理の専門家等が名を連ね、また独立委員会にいたってはガバナンスの専門家や企業の経営者等が加わっています。
たしかに、今回の不祥事は、その内容から、専門とする委員達の議論に委ねることで果たす役割は大きいとものといえるかもしれません。しかし、真の改革を目指すのであれば、「生身」の議論をする必要があるように思われます。なぜなら、賭博行為という不祥事の「切り身」の部分でおきていることをいくら議論しても相撲の本質にいたる「生身」の部分に辿り着かないからです。
そこで「生身」と「切り身」という概念について考えてみる必要があります。それは自然環境や自然保護の問題において、人間と自然とのかかわりの関係性の様態を表す概念としてよく用いられています。たとえば食の場面でいえば、スーパーマーケットでパック詰めされた肉片が「切り身」であるならば、自然のままの姿の動物が「生身」ということになります。
この「生身」と「切り身」という概念を大相撲の問題に当てはめて考えてみると、相撲そのものが生身であり、それらのかかわりの部分が切り身ということになります。そう考えると、正に「生身」の議論がなされていないのです。興業中心の「切り身」の部分における経営主義や商業主義のプロモーション上の問題点としての観点のもとに議論がなされているように思えるのです。つまり、ものごとをかかわりの部分でしか捉えず、その結果として全体性(生身)が見えなくなっているといっても過言ではない状況にあるといえるでしょう。
「生身」としての相撲とは何か。相撲を成り立たせているものとは何か。さらには大相撲の目的とは何か。ここを論じることをしていないのが大変残念に思います。
なぜなら、相撲には民俗的、宗教的な関連を基層とする姿勢が重心にあって、その上で「生身」(神事技)として捉える思考を構築しなければならないからです。
考えてみましょう。神明づくりの屋根に覆われた土俵、塩を散き場を清める力士の姿、また数々の所作や作法を見ても理解できるように、他のスポーツや格闘技とはあきらかに違うすがたを要しています。それは神事という「ハレ」の場にのぞむ姿でもあり、また化身した姿ともいえます。巡業先で赤ちゃんを力士に抱いてもらう、これも化身した力士に神威をいただく、強い健康な子に育ってほしいという母が神に祈る気持ちと同じものなのです。
つまり、力士は土俵上では神の化身になるのです。
ここに関係者たちが威儀を正し、誇りと気高さと品格をどのように取り戻し、それをどのように投影させられるかが問われているのです。
相撲の起源は、古事記・日本書紀の神代の記述においても窺い知ることができます。歴史と伝統の文脈の中に、連綿と受け継がれた神代の気高さに満ちあふれた神聖な行事のはずです。
おわりに、真の改革を実現するためには、歴史、文化、民俗、宗教などに精通した研究者や専門家たちによる議論が望まれます。表面化した不祥事のみに対する切り身の部分の範疇の議論には限界があり、法律やガバナンスに関する組織運営においては期待できるものがあるかもしれません。しかし、国技とする相撲の本質といえる、文化的・宗教的リンクが社会的・経済的リンクにつながる全体性としてのかかわりの達成においては、今回の改革策には期待できるものがあるかどうかいささか疑問が残ります。
人は、日々の生活の中で、自然と関わりながらも、その価値については特に深く考えることなく暮らしていることがあります。
前回、環境倫理学から、自然についての価値がわかりやすく説明されていることを申し上げました。
ところで、最近、ふと思うのですが、このような自然の価値の、いずれにも当たらない「無関心」や「無価値」といったような価値観をもつ人たちがいるように思われます。(それを価値観と呼べるかどうかは疑問ですが・・・)
たとえば、ある町での出来事ですが、街路樹に落葉樹を植えたところ、秋に落ち葉の掃除が大変だということになり、すべて常緑樹に植えかえてしまったという話しを聞きました。(常緑樹も春には落葉するのを知らない?)
また、ある町では、旧家の広い屋敷林があって、最近その周辺が新しく開発され住宅地になってしまった。そこでも同じような苦情がよせられたため、家主はやむなく屋敷林の樹木をすべて切ってしまったといいます。
このようなことは、町の中の身近な自然として、親しみをもって捉えられている公園や民有林、また社寺林などにおいてもいくつかの事例がみられます。
そんな時に思うのですが、人が、その土地で生活を始めるとき、身近な自然が時として「じゃまもの」としての「モノ」になってしまうことがあります。共に生きているという感覚から遠ざかり、自然との交感を拒絶するかのような、人間中心主義をも超え、むしろ自己中心主義に陥ってしまっているような気がします。そんなとき、そのような人たちの心に巣くうであろう虚ろさのようなものが見え、さみしい気持ちになることがあります。すなわちそれは、自然と人間とを、ただ対置させただけの考え方が少しづつ顕れてきているように思われるからです。自然に対して、私たちはどのようなセンスをもつべきかが問われています。
民俗学の野本寛一は、「ヨーロッパは、キリスト教の信仰により、土着信仰を無視して開発をしてきたことに対して、すでに反省をもっています。しかし、日本では神道が守ってきた自然に対するモラルを軽々しくあつかっている部分があるような気がします。」と指摘し、私たちが反省すべき点を警鐘的に述べています。
さて、話しはかわりますが、伊勢神宮の神前にお供えするアワビの産地として伊勢志摩、熊野の地方があります。そこでは「アワビ採りうた」という謡があります。
「ついよ、ついよ、ついよ、竜宮さんの孫よ、行ったらくだされ、ほたほたと」と唄います。「竜宮さんの神様、私は竜宮さんの孫です、もぐっていったら、アワビをくだされ」という意味です。
この自然観がとても大切なことであると野本はいいます。
つまり、「いただくという思想」が謡に転化され、謡によって資源を守るという価値にいたる、自然と謡と人がつながっている、この営みの自然観が大切であるというのです。
そこで、身近な自然が“じゃまもの”になってしまったことについて少し考えてみたいと思います。
それは、野本がいう、「いただくという思想」が軽躁になってしまっているということかも知れません。「いただく」とは、つながっているからこその心性であり、現代人はそれを断ってしまっているような気がします。
たしかに、生活者にとっては生活上、落ち葉は厄介なものでしょう。雨どいや車のフロントガラスにたまったり、洗濯物の上に落ちてきたりもする。しかし、これも自然の移ろいとその循環の豊かさが醸し出す、自然と人とのつながりのできごとなのです。ディープエコロジーでは「豊かであるとはどういうことなのか」を問うことに価値をもとめています。その答えが“じゃまもの”の落ち葉に何を思い、何を窺い知るかが問われています。落ち葉は土にかえり、栄養となり、また新しい葉を芽吹かせ、新鮮な酸素を私たちに与えてくれます。つまり、この一連のつながりの中に「いただく」という価値の重心があり、それが自然に対する「いつく」という人間としてのあるべき姿なのです。
すなわち、自然に対して、神に仕えるようなやさしい気持ちで自然の営みや恵みのさまざまな有り様を大事に世話することなのです。やさしい気持ちでその落ち葉を拾い集め、土にかえしてあげる、そこに大いなる価値を求める、そのような心のはたらきが豊かさであり、そうする心性が人間としての真の豊かさの証しなのです。
人間の心は本質的に自然とともに豊かなはずです。そしてその豊かさによって生かされています。それを生かし切れないで人生をおくることは実にもったいないものです。「いただくという思想」、この豊かさを保持しつづけるには「自然に反応する人」になり、「自然にいつく生活を心がける人」になることが大切だと思います。
おわりに、私たちは自然の厳しさの中にも、自然の豊かさに豊かな心で反応することができるはずです。そうすることで環境問題についてもその一助となり得るのではないでしょうか。そして、生命の一つ一つの営みを我が身にとどめておくことが大切なのです。
そうすれば、きっと、楽しい人生が送れると思います。
前回につづいて、環境保護活動についてのつぶやきです。
ところで、近年“自然の価値”に関する様々な意見が聞かれますが、それでは、この“自然の価値”とは一体何でしょうか。
この問いに答えるには、環境倫理学の立場から説明することができます。一つは、自然は人間が利用するからそこに価値がある、だからこそ守られるべきであるという「使用的価値」です。二つ目は、自然は畏怖や畏敬の対象として価値があり、何らかの感情を引き起こさせてくれるものが内在しているという「内在的価値」です。三つ目は、兎にも角にも自然には守るべき本質的な価値があって、人間にとってどうであれ守られるべきであるという「本質的価値」です。
前回でも少し触れましたが、環境問題を考えるとき、西洋先進国のアメリカの自然観は「ウィルダネス(原生自然)」の概念で、それが本質的に通底している問題域として存在していますから、それを捉えて考察する必要があります。
さて、「ウィルダネス(原生自然)」の概念は、人間中心主義を脱却し、非人間中心主義へと転換していく中で環境思想の理論的な中核を成してきました。
しかし、西洋社会の、第三世界ではない文脈の中では、「ウィルダネス(原生自然)」は、そもそも否定的なイメージで使われていました。そこは「荒れ野」であり、荒涼としていて恐ろしい悪魔が棲む場所である、野生の動物は悪魔の使いである、だから秩序づけられなければならないという考え方です。
このようなウィルダネスのネガティブな評価も、18世紀末からロマン主義や超越主義によって価値が与えられ、特にアメリカにおいては、そのたくましさからアイデンティティ形成の中で進展していくという歴史的評価もあります。
たしかに、「ウィルダネス(原生自然)」の概念の転換は、環境思想の深化の意味から評価されるものといえるかもしれません。しかし、これらの思想は、依然として都市に住む人間の視点に立つ思想が中心にあって、ネイティブな人々へのまなざしがなく、自然と人間とを対置させた二元論・二分法的な枠組みから少しも脱却しているとは思えないのです。
つまり、この図式でしか捉えられない、西洋先進国の思想がいまだに根底に存在しているようです。第三世界に住む人間の自然との文化的・宗教的なかかわりの中の“営み”や“なりわい”が射程に入っていないのです。これは本質的なあやまりであり、それを考慮しない議論にどれほどの意味があるのでしょうか、不毛としかいいようがないような気がします。
その欠陥ともいえる象徴的なできごとがおきています。反捕鯨活動や日本の伝統的イルカ漁を隠し撮りしたドキュメンタリー映画「ザ・コーヴ」にみられる動物開放論や動物権利論の生命中心主義を標榜した過剰なまでのプロパガンダともいえるできごとです。
インドのグーハ博士は、著書『ラディカルなアメリカの環境主義とウィルダネスの保存ー第三世界からの批判』の中で先進国の環境主義者がウィルダネスの概念に取り憑かれ、本来解決しなければならないことから目を逸らしていると指摘しています。
西洋先進国の価値観とは進化論でたとえられる価値に依拠しています。たとえば、宗教について考えてみましょう。岩や木を拝むような原始的な宗教などは、進化の過程を経て一神教的な宗教に進化するという考え方です。また、自然の価値において考えてみると「使用的価値」から「内在的価値」へ、そして「本質的価値」へと進化することに最大の価値を求めています。
それでは、日本における自然の価値とはどういうものでしょうか。環境倫理学に従えば、それは「使用的価値」「内在的価値」「本質的価値」が初から三位一体として存在し、進化ではない深化の過程を経て醸成されてきた価値といえるかもしれません。風土と古来複合的な価値観との違いといってしまえばそれまでですが、神道の自然観は“センス・オブ・ワンダー”でありながら、さらにいえば“自然の威に仕える”ー“かんながらいつく心にしたがう”ーという価値といえるでしょう。
おわりに、西洋社会の環境活動に触れるにつけ思うのですが、過激な反捕鯨活動や「ザ・コーヴ」のような企図された映画が、新しい時代の、多文化共生社会に向けたサスティナビリティ(持続可能性)という新たな価値を構築していく中で、はたして環境保護や環境教育にとって、どれだけの意味をもち、どれだけの役割を果たし得るのか、いささか疑問が残ります。人間が生きていく中で、自然を含め様々なことに接するとき、不作法であってはならないと私は思います。さまざまな価値観がある中で、異文化を受け入れる、異質さも認め合う、それは大変良いことだと思います。その上で作法をもつことがサスティナビリティにつながる最も大切な要素だと思います。
環境保護活動について考える時、とかく問題になるのは異なる文化をもつ者同士の相互理解の難しさです。それは異文化間の寛容的理解の欠如から、自己の属性による価値観を主体化し他の価値観を客体化する、そのような例がよくみられます。さらに、象徴的ともいえる陥穽の亡霊のようなものが見え、それが自らを脅かしていることに気付いていないところに問題があるようですね。したがって、互いに歩み寄ろうとする余地を持ち得ていないところが、大変残念に思います。
ところで、環境保護活動の問題に関わり、未来志向の方向性を見出すとき、異文化理解の立場から優れた研究者によって主張されている大切な価値観があります。
それは、「異なる思考や習慣をもつ者同士がコミュニケーションをとるとき、大切なのはお互いの文化を異文化として認識し、理解し合うこと、また、世界各地域において個人、集団、組織、あるいは国家を形成している人々の思考、言語、習慣、行動には、それぞれの地域における長年の歴史や民族性によって蓄積された文化が深く関わっていること、人類が共存していくためには、このような文化の重要性を強く認識し、各地域の政治的、社会的、歴史的文脈の中で広く捉え直すこと」など、これらが異文化理解の重要な要素として研究されています。
神道では自然を「コトの自然」として捉え、「モノの自然」としての捉え方をしません。
環境保護活動が盛んなアメリカにおける「ウィルダネス(原生自然)」の自然観は現存としての「モノの自然」です。他方、日本では「花鳥風月・雪月花」のような“風物”という観念で捉えていく自然観は「コトの自然」です。西洋(アメリカ)的な自然観においては、このような観念があまりないようです。
それでは、「コトの自然」とはどういうことでしょうか。それは自然と人間という二分法では捉えられない、双方におきている複合的な“コトの背景”(神道では“ムスヒ”という観念で捉えます)を見据えた上の、じゅうぶんな認識と、生きるための、そして共生を試みるための、自然の働きと人間の心の働きを重ね合わせた、喜悦前進のリズムと調和している“模様”というべきものを価値とする自然観です。
よくいわれていることですが、日本では命をいただくから「いただきます」といい、「お陰さま」といってその命の尊さを有り難み、生類の魂を慰め、手厚く祀って供養することを決して忘れません。筆や針や下駄さえも供養します。それが日本人的な生き方の営みであり、自然や物に対して真面目に向き合おうとする姿なのです。資源が枯渇しないように“たいせつさ”を心がけていくのです。ここに西洋社会との決定的な違いがあるように思われます。それが「MOTTAINAI」ということです。
一種の生類を保護するあまりの、過剰なまでの手段をえらばない環境保護活動には、環境中心主義を標榜しながら常にその言説や行動には横すべりが見られ、エコとエゴが秩序なく混成し、イデオロギーだけが哀れな残物と化しているかのように思われます。
絶対的に悪いこととか、絶対的に良いこととかの発想をもてば必ず結果は負の人間中心主義に陥ることになります。それは環境保護や環境教育にとってほど遠いものになることは間違いないでしょう。