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環境保護活動に思うこと・・・  

 環境保護活動について考える時、とかく問題になるのは異なる文化をもつ者同士の相互理解の難しさです。それは異文化間の寛容的理解の欠如から、自己の価値観の押しつけ、他の価値観の排除、さらに象徴的ともいえる陥穽する快感に浸る亡霊者がときどき現れることです。それが自らを脅かしていることに気付いていないところに問題があるようですね。したがって、互いに歩み寄ろうとする余地を持ち得ていないところが大変残念に思います。

 ところで、環境保護活動の問題に関わり、未来志向の方向性を見出すとき、異文化理解の立場から優れた研究者によって主張されている大切な価値観があります。

 それは、「異なる思考や習慣をもつ者同士がコミュニケーションをとるとき、大切なのはお互いの文化を異文化として認識し、理解し合うこと、また、世界各地域において個人、集団、組織、あるいは国家を形成している人々の思考、言語、習慣、行動には、それぞれの地域における長年の歴史や民族性によって蓄積された文化が深く関わっていること、人類が共存していくためには、このような文化の重要性を強く認識し、各地域の政治的、社会的、歴史的文脈の中で広く捉え直すこと」(鳥飼玖美子)など、これらが異文化理解の重要な要素として研究されています。

 神道では自然を「コトの自然」として捉え、「モノの自然」としての捉え方をあまりしません。
環境保護活動が盛んなアメリカにおける「ウィルダネス(原生自然)」の自然観は現存としての「モノの自然」のようです。他方、日本では「花鳥風月・雪月花」のような“風物”という観念で捉えていく自然観は「コトの自然」です。西洋(アメリカ)的な自然観においては、このような観念があまりないように思えます。
 
 それでは、「コトの自然」とはどういうことでしょうか。それは自然と人間という二分法では捉えられない、双方におきている複合的な“コトの背景”(神道では“ムスヒ”という観念で捉えます)を見据えた上の、十分な認識と、生きるための、そして共存を試みるための、自然の働きと人間の心の働きを重ね合わせた、喜悦前進のようなリズムと調和している“模様”ともいうべきものを価値とする自然観です。

 よくいわれていることですが、日本では命をいただくから「いただきます」といい、「お陰さま」といってその命の尊さを有り難み、生類の魂を慰め、手厚く祀って供養することを決して忘れません。筆や針や下駄さえも供養します。それが日本人的な生き方の営みであり、自然や物に対して真面目に向き合おうとする姿なのです。資源が枯渇しないように“たいせつさ”を心がけていくのです。ここに西洋社会との決定的な違いがあるように思われます。それが「MOTTAINAI」ということです。

 一種の生類を保護するあまりの、過剰なまでの手段をえらばない環境保護活動には、環境中心主義を標榜しながら常にその言説や行動には横すべりが見られ、イデオロギーだけが哀れな残物と化しているかのように思われます。

 絶対的に悪いこととか、絶対的に良いこととかの発想をもてば必ず結果は人間中心主義に陥ることになります。それは環境保護や環境教育にとってほど遠いものになることは間違いないでしょう。

 環境保護活動に関しては、他を排斥しない寛容な心の教えを核とする環境教育が育ってほしいと思います・・・

                           宮司 高梨富弥