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持続可能な環境保護活動とは・・・    

持続可能な環境保護活動とは・・・   宮司のつぶやき事 その2

前回につづいて、環境保護活動についてのつぶやきです。

 ところで、近年“自然の価値”に関する様々な意見が聞かれますが、それでは、この“自然の価値”とは一体何でしょうか。
 
 この問いに答えるには、環境倫理学の立場から説明することができます。一つは、自然は人間が利用するからそこに価値がある、だからこそ守られるべきであるという「使用的価値」です。二つ目は、自然は畏怖や畏敬の対象として価値があり、何らかの感情を引き起こさせてくれるものが内在しているという「内在的価値」です。三つ目は、兎にも角にも自然には守るべき本質的な価値があって、人間にとってどうであれ守られるべきであるという「本質的価値」です。

 前回でも少し触れましたが、環境問題を考えるとき、西洋先進国のアメリカの自然観は「ウィルダネス(原生自然)」の概念で、それが本質的に通底している問題域として存在していますから、それを捉えて考察する必要があります。

 さて、「ウィルダネス(原生自然)」の概念は、人間中心主義を脱却し、非人間中心主義へと転換していく中で環境思想の理論的な中核を成してきました。

 しかし、西洋社会の、第三世界ではない文脈の中では、「ウィルダネス(原生自然)」は、そもそも否定的なイメージで使われていました。そこは「荒れ野」であり、荒涼としていて恐ろしい悪魔が棲む場所である、野生の動物は悪魔の使いである、だから秩序づけられなければならないという考え方です。

 このようなウィルダネスのネガティブな評価も、18世紀末からロマン主義や超越主義によって価値が与えられ、特にアメリカにおいては、そのたくましさからアイデンティティ形成の中で進展していくという歴史的評価もあります。

 たしかに、「ウィルダネス(原生自然)」の概念の転換は、環境思想の深化の意味から評価されるものといえるかもしれません。しかし、これらの思想は、依然として都市に住む人間の視点に立つ思想が中心にあって、ネイティブな人々へのまなざしがなく、自然と人間とを対置させた二元論・二分法的な枠組みから少しも脱却しているとは思えないのです。

 つまり、この図式でしか捉えられない、西洋先進国の思想がいまだに根底に存在しているようです。第三世界に住む人間の自然との文化的・宗教的なかかわりの中の“営み”や“なりわい”が射程に入っていないのです。これは本質的なあやまりであり、それを考慮しない議論にどれほどの意味があるのでしょうか、不毛としかいいようがないような気がします。

 その欠陥ともいえる象徴的なできごとがおきています。反捕鯨活動や日本の伝統的イルカ漁を隠し撮りしたドキュメンタリー映画「ザ・コーヴ」にみられる動物開放論や動物権利論の生命中心主義を標榜した過剰なまでのプロパガンダともいえるできごとです。

 インドのグーハ博士は、著書『ラディカルなアメリカの環境主義とウィルダネスの保存ー第三世界からの批判』の中で先進国の環境主義者がウィルダネスの概念に取り憑かれ、本来解決しなければならないことから目を逸らしていると指摘しています。

 西洋先進国の価値観とは進化論でたとえられる価値に依拠しています。たとえば、宗教について考えてみましょう。岩や木を拝むような原始的な宗教などは、進化の過程を経て一神教的な宗教に進化するという考え方です。また、自然の価値において考えてみると「使用的価値」から「内在的価値」へ、そして「本質的価値」へと進化することに最大の価値を求めています。

 それでは、日本における自然の価値とはどういうものでしょうか。環境倫理学に従えば、それは「使用的価値」「内在的価値」「本質的価値」が始めから三位一体として存在し、進化ではない深化の過程を経て醸成されてきた価値といえるかもしれません。風土と古来複合的な価値観との違いといってしまえばそれまでですが、神道の自然観は“センス・オブ・ワンダー”でありながら、さらにいえば“自然の威に仕える”、“かんながらいつく心にしたがう”、という価値といえるでしょう。

 おわりに、西洋社会の環境活動に触れるにつけ思うのですが、過激な反捕鯨活動や「ザ・コーヴ」のような企図された映画が、新しい時代の、多文化共生社会に向けたサスティナビリティ(持続可能性)という新たな価値を構築していく中で、はたして環境保護や環境教育にとって、どれだけの意味をもち、どれだけの役割を果たし得るのかいささか疑問が残ります。人間が生きていく中で、自然を含め様々なことに接するとき、また様々な出来事に対する時、そこにおいて不作法があってはならないと私は思います。不作法とはいつく心がないということです。

 様々な価値観がある中で、異文化を受け入れる、異質さも認め合う、それは大変良いことだと思います。その上で互いが良き作法をもつことがサスティナビリティにつながる最も大切な要素だと思います。

                                  宮司 高梨富弥