buy flagyl online codbuy novadexfluoxetine for sale onlinepropecia with no prescription40 mg cialis best dosetitlebuylowdrugsflagil no rxlevaquin lawsuitviagra doctorsfenazopiridina comprarehttp://getcandycms.com/meo/zovirax-ointment-cost.phprx pharmacy onecost of flomax in mexicohttp://getcandycms.com/meo/aviane.phphttp://getcandycms.com/meo/viagra-in-kenya.phpaverage cost of viagra 100mg

「じゃまもの」になってしまった身近な自然・・・   

「じゃまもの」になってしまった身近な自然・・・   宮司のつぶやき事 その3

 

人間は、日々の生活の中で自然と関わりながらも、その価値については特に深く考えることなく暮らしていることがあります。

前回、環境倫理学から自然についての価値がわかりやすく説明されていることを申し上げました。

ところで、最近ふと思うのですが、このような自然の価値のいずれにも当たらない「無関心」や「無感覚」といったような価値観をもつ人たちがいるように思われます。(それを価値観と呼べるかどうかは疑問ですが・・・)

たとえば、ある町での出来事ですが、街路樹に落葉樹を植えたところ、秋に落ち葉の掃除が大変だということになり、すべて常緑樹に植えかえてしまったという話しを聞きました。(常緑樹も春には落葉するのを知らない?)
また、ある町では旧家の広い屋敷林があって、最近その周辺が新しく開発され住宅地になってしまった。そこでも同じような苦情がよせられたため、家主はやむなく屋敷林の樹木をすべて切ってしまったといいます。
このようなことは、町の中の身近な自然として親しみをもって捉えられている公園や民有林、また社寺林などにおいてもいくつかの事例がみられます。

そのような時に思うのですが、人が、その土地で生活を始める時、身近な自然が時として「じゃまもの」としての「モノ」になってしまうことがあります。共に生きているという感覚から遠ざかり、自然との交感を拒絶するかのような、人間中心主義をも超え、むしろ自己中心主義に陥ってしまっているような気がします。そんなとき、そのような人たちの心に巣くうであろう虚ろさのようなものが見え、淋しい気持ちになることがあります。すなわち、それは自然と人間とをただ対置させただけの考え方が少しづつ顕れてきているように思われるからです。自然に対して、私たちはどのようなセンスをもつべきかが問われています。

民俗学の野本寛一は、「ヨーロッパは、キリスト教の信仰により、土着信仰を無視して開発をしてきたことに対して、すでに反省をもっています。しかし、日本では神道が守ってきた自然に対するモラルを軽々しくあつかっている部分があるような気がします。」と指摘し、私たちが反省すべき点を警鐘的に述べています。

さて、話しはかわりますが、伊勢神宮の神前にお供えするアワビの産地として伊勢志摩、熊野の地方があります。そこでは「アワビ採りうた」という謡があります。
「ついよ、ついよ、ついよ、竜宮さんの孫よ、行ったらくだされ、ほたほたと」と唄います。「竜宮さんの神様、私は竜宮さんの孫です、もぐっていったら、アワビをくだされ」という意味です。

この自然観がとても大切なことであると野本はいいます。
つまり、「いただくという思想」が謡に転化され、謡によって資源を守るという価値にいたる、自然と謡と人がつながっている、この営みの自然観が大切であるというのです。

そこで、身近な自然が“じゃまもの”になってしまったことについて少し考えてみたいと思います。

それは、野本がいう、「いただくという思想」が軽躁になってしまっているということかも知れません。「いただく」とは、つながっているからこその心性であり、現代人はそれを断ってしまっているような気がします。

たしかに、生活者にとっては生活上、落ち葉は厄介なものでしょう。雨どいや車のフロントガラスにたまったり、洗濯物の上に落ちてきたりもする。しかし、これも自然の移ろいとその循環の豊かさが醸し出す自然と人とのつながりの“できごと”なのです。ディープエコロジーでは「豊かであるとはどういうことなのか」を問うことに価値をもとめています。その答えが“じゃまもの”の落ち葉に何を思い、何を窺い知るかが問われています。落ち葉は土にかえり、栄養となり、また新しい葉を芽吹かせ、新鮮な酸素を私たちに与えてくれます。つまり、この一連のつながりの中に「いただく」という価値の重心があり、それが自然に対する「斎く」という人間としてのあるべき姿なのです。
つまり、自然に対して、神に仕えるようなやさしい気持ちで自然の営みや恵みのさまざまな有り様を大事に世話することなのです。やさしい気持ちでその落ち葉を拾い集め、土にかえしてあげる、そこに大いなる価値を求める、そのような心のはたらきが豊かさであり、そうする心性が人間としての真の豊かさの証しなのです。

人間の心は本質的に自然とともに豊かなはずです。そしてその豊かさによって生かされています。それを生かし切れないで人生をおくることは実にもったいないものです。「いただくという思想」、この豊かさを保持しつづけるには「自然に反応する人」になり、「自然に対して斎(いつ)く生活を心がける人」になることが大切だと思います。

おわりに、私たちは自然の厳しさの中にも、自然の豊かさに豊かな心で反応することができるはずです。そうすることで環境問題についてもその一助となり得るのではないでしょうか。そして、生命の一つ一つの営みを我が身のものとしてとどめておくことが大切なのです。
そうすれば、きっと、楽しい人生が送れるのではないかと思うのですが・・・

宮司 高梨富弥